背表紙

 少し古い話題なんですが、先週日曜のサンデージャポンを見ていて思ったこと。
テリー伊藤さんが自身の著作を手にもって「『王さんに抱かれたい』というタイトルです。文庫です」と宣伝していた。

王さんを描いた表紙は印象に残った。文庫なんだね、うん。発売中なんだ。

で、それはどこの文庫から出てるんですか?

まがりなりにも本屋でバイトしてるなら分かれよ、というつっこみは置いておく(この批判は無茶な面が実際ある。自分には無理です)。

どこ出版の文庫で出てますと言ってもらえないと、テレビ見て本屋に来てもお客さんは探せないと思う。
店側が表紙が見えるように陳列していれば印象的な表紙ですし分かりますが、文庫の新刊の扱いなんて店によってさまざまです。
マイナーな文庫ならスペースが限られているために表紙を見せないで棚にさしてしまうというのはよくある。
実際自分のところもそう広くないので、大手の文庫は入口近くに面出し。早川、ちくまなどの中堅は既刊の近くで展開。さらにランクが下がると一、二冊を面を見せて残りはサシか、もしくは全てサシとする。これらの場所はバラバラ。
入口にどーんと纏めるのが分かりやすいのは山々なんですが、そうするためには隣のビジネス書や文芸書を押しのける必要がある。

テレビだからアピールの時間も限られているとは思うんですが・・。
ある程度本好きで本屋によく行く人じゃないと厳しいと思う(文庫名がわかっていても、かもしれませんが)。
テレビを見ただけじゃ、たぶん自分では探せない。

かくいう自分はさっぱり分からないので一応版元をネットで調べようと思いパソコンを開いたが。
ちょっと待て。 
そういえば、テリーさんの手が揺れたかカメラが動いたかした時、ちらりとクリームっぽい黄色が一瞬見えていたな・・。

と、なると創元推理文庫はありえないし、内容からしてたぶん

 ゴマ文庫

調べるとビンゴ!! ごめんなさい、自分の店ではだいぶ奥に陳列してあります。面は見せていますが。
(後から考えればちくま文庫PHPも十分ありうるし、そもそも作者によって背表紙の色を変える文庫なんて沢山ある。だからこの正解は運だ)

・・・しばらくしてふと思った。
なぜ本を紹介する時は前の表紙は見せるのに多くの場合背表紙は見せないんだろう?

なぜってもちろんオモテの表紙が本の文字通りの「顔」になるから。 
それはもちろんなんですが、オモテの表紙ばかり重視されてはいやしないだろうか。

上でも書いた通り平台などで陳列されていればいいのですが、実際は本屋でほとんどの本は本棚に入っています(当たり前だ)。

だから、本の本当の「顔」は「背表紙」なのではないか。


 集英社文庫のカバーデザインがかなり以前にリニューアルされました。
その宣伝のフリーペーパーかネットか何かで確かそのデザインを担当された方のインタビューが掲載されていました。
背表紙は著者の名前と頭文字と整理番号(例えば北方謙三なら「き」が白い丸の中に入っている。整理番号は3)の位置、サイズなどが変更されたのですが

本屋さんの棚に陳列された時に作者の頭文字の丸がきれいに一列に並ぶことを意識してデザインした(うろ覚え)

といったことを言っていたと思います。
このあたり記憶があいまいな話なので例え話として失格ですが、いずれにせよ様々なデザインの背表紙が作り出すいろどりは書店の雰囲気の重要なファクターなのではないでしょうか。
出版社ごとに棚わけをするとそれぞれで文字通りの色分けがされて

メフィスト賞もありぜ。どこかやんちゃな講談社文庫。京極ぶ厚!」
司馬遼太郎池波正太郎。大人の娯楽、文春文庫」
「おむすびころりん*1、ポロリもあるよ双葉文庫
「まさしく教養の王道、よっ!岩波文庫
ジーンズを履いて楽しむ教養、ちくま文庫」など。(※勝手なイメージです)

このように(?)棚が個性を持つ。なによりデザインが統一されると美しい。
それゆえに著者順陳列を嫌う人もいますが、その生み出す雑多さがかえってこれまで読んだことのない作者に手を出すちょっとした冒険を後押ししてくれるような気もする。

人間失格などの話題でオモテの表紙がクローズアップされがちですが、文庫に限らず、書店のフロアで地味にでも本をアピールし続けているのは背表紙なんです。


インターネットでココのようなサイトで本を紹介すると、当然ですが

王さんに抱かれたい (ゴマ文庫)

王さんに抱かれたい (ゴマ文庫)

ほら、表紙だけ。
アマゾンだからですが。
個人のサイトで本を紹介する時に自分の蔵書を写真に撮ってらっしゃる所がありますが、本を斜めから写して全体の感じを伝えていらっしゃるのを見てなんとなくホッとする。
本はやっぱり良い意味で「物」なんだから。

*1:広告で使われるキャラクターのイメージより。「ポロリ」はもちろんとある一ジャンル。